[ 異郷 no.06, 1999.6.5 発行より]

  函館におけるロシア人の諸相(1910年代から1930年代)

      函館のロシア人社会は、ここが北洋漁業の基地だったことに大きく影響を受けている。

函館はロシア極東のウラジオストクやニコラエフスクをはじめ、漁場のあるカムチャツカ諸港との間に定期航路を有していたため、ロシア革命後、これらのルートからの亡命者の受け入れ窓口となった。特に、尼港(ニコラエフスク)事件後、保障占領という名目で日本軍の支配下にあった北サハリンが、1925年の日ソ基本条約締結によって、ソビエト政権下におかれるという時、そこから多数の白系ロシア人たちが亡命してきた。そのうち、函館に住み着いた人々はそう多くはなかったらしいが、この年の在留ロシア人人口は157人で、統計上では最多の年となったのである。

函館に住み着いたロシア人をみてみると、漁業関係の仕事をしている人が多く、彼らの大部分は、亡命以前、ロシア極東で漁業家として活動していた人たちであった。革命前から函館の商人たちと取り引きをしたり、漁夫を雇用したりと、深い縁があったのである。それゆえ、仕事の継続のためには、横浜や神戸よりもこの町のほうが都合が良かったのだ。1924年5月の調査では、函館にいるロシア人漁業家は34人を数えている。

函館はソ連とのかかわりでも、特殊な立場にあった。まだ日ソ間に国交のない1923年、後藤新平とヨッフェの会談の結果、函館には特別に「査証官」と称するソ連の官吏が派遣された。日本側としても、すでに国家権益として認知されていた北洋漁業を一刻でも早く、安全な状況で行いたかったのである。

一方、ネップ政策下のソ連において、極東には国営の漁業機関などが設けられ、その支部が函館に置かれた。そして、政府は旧帝政派の漁業家や亡命漁業家たちも、そのノウハウを利用するために、ソ連国籍を与えて擁護した。1920年代後半の函館は、こういった事情で、「ソ連人」の数が「旧露国人」を上回っていたのである。しかし、1930年代に入ると、ソ連政府の対応は変化し、前述の漁業家たちに不信の眼をむけはじめた。そのため再びソ連国籍を放棄する人々も少なくなかった。

亀井勝一郎は、その頃のことを「赤」がものを買う店では「白」は絶対に買わぬ。「白」がものを買う店では「赤」は絶対に買わぬ。同国人でありながら街で出会うと彼らは激しい眼でみあった、と書いている(『月刊ロシア』4−11)。

またソ連領事館で革命記念日が祝われている時、白系の人々は教会で恨みの涙を流したという報告もある。これほど際立った「赤」と「白」の対立も、おそらくほかではあまり見られなかったものではないだろうか。

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